〈すべての瞬間は君だった。〉の楽曲からイマジネーションを広げたショートストーリー。
第2弾は、『花言葉』。「美しい心残り」の物語です。
ノブをひねってぐいっと押すと、外に開いた出窓の向こうから、待ってましたと秋の風が舞いこんでくる。
白いカフェカーテンがひらひらと揺れるのを追うように、窓沿いに手をのばして反対側の窓を開ける。流れこむ空気の温度が、先週より、確実に低い。階段を一段一段くだるように、週ごとに涼しくなっているようだ。
そろそろ、もこもこのスリッパ買わなきゃね。頭の中のメモに、彼女はそう書きこんだ。
心地よい風を頬に感じながら、口の中に突っこんだままの歯ブラシを動かす。早起きに成功した、気持ちのいい土曜日の朝だった。
ぺたぺたという足音とともに、後ろ姿が水回りに消える。やがてぶくぶくとうがいが聞こえ、勢いよく流れる水の音が続いた。
ややあって、ライトグレーのスウェット上下の人影が部屋に戻ってきた。足元のスリッパは、たしかにすこしくたびれ気味だ。ヘアターバンでかき上げた前髪のおかげで、おでこからあごの先まで、真っ白な顔の全面を朝の日差しが照らしている。首から下げた桜色のタオルであらためて顔を押さえると、「よっ……と」とヘアターバンをするすると後ろにずらしながら二重三重の輪をつくり、セミロングの髪をざっとひとつにまとめあげた。
うーん、と伸びをしながら、出窓に向いた視線が、ふっと微笑む。鼻歌を歌いながらキッチンに向かい、水切りから逆さにしていたミニサイズのペットボトルを取り上げる。蛇口のレバーを押し上げ、三分の一ほど水を入れると、軽い足取りで出窓へ向かった。窓に立てかけてあった折りたたみチェアを引き寄せ、片手片足で器用に展開する。すとんと座ると、目の高さには白い鉢に植えられた一株の観葉植物がたたずんでいた。
左手でそっと葉をかき分け、右手のペットボトルを傾けて、根元にぐるりと水をやる。とん、と空になったペットボトルを置くと、鉢の隣に置かれたフォトスタンドの位置をちょっと直した。
「涼しくなったね」
なんとなしに葉っぱを触りながら、揺れるカーテンに視線を移す。親指で葉の表面をなでながら、人差し指はハート型の輪郭をゆっくりとたどっていた。
「あそこのイチョウ並木、もう黄色くなってるかな。遠回りして、行ってみようか」
窓の向こうを見ながらそう語りかける視線は、目の前の景色ではなく、遠い記憶をたどっていた――
夏のある日。
二人で海を見に行った帰りの道すがら、露天の花屋で立ち止まる。
彼は朝顔を見て、懐かしいねと言った。記念に買って帰ろうか?と聞かれ、彼女は首を横に振った。
「こっちの、葉っぱがかわいいのがいいんじゃない?」
指さしたのは、観葉植物の白い鉢。しゃがみこんで葉っぱをつつく彼女が見上げると、「いいね」とうなずく彼の笑顔が逆光ににじんでいた。
ビニール袋に提げた鉢植えを揺らしながら、上機嫌で歩く彼女。
「どんな花が咲くかなあ。咲いたら調べようね、花言葉」
彼はきょとんとした顔で返す。
「え? いや……。それ、花は咲かない種類だと思うけど」
思わず立ち止まった二人。「はあ?」というすっとんきょうな彼女の表情にこらえきれず、彼はひざに手を置いて笑いだす。つられて彼女の口からも笑い声があふれ、息が苦しくなるほどだった。
二人で手をつないで歩き出した後も、どちらからともなくくすりと笑いがもれ、「もー、やめてよー」と彼女は顔を赤くするのだった。
秋のある日。
彼の母校の学園祭に出かけたら、思ったよりも人が多くて顔を見合わせた。
足もとには黄色い絨毯のようにイチョウの葉が敷きつめられ、それを踏みながら行き交う人々の波がとぎれない。
やめとく?と尋ねる彼の言葉を数秒待たせて、「ううん、行こ!」と歩き出す。と、するりと彼に追いこされ、前から左手を差し出される。
「ここからもっと混むから。手、つないどこう」
にたっと笑ってその手を取った彼女は、子供のようにぶんぶんと振りながら、彼を押し出すように歩き始めた。
「おい! ちょっと……」
普段は落ち着いた年上の彼が、あたふたと動揺するのがおかしくて、この手をぜったい離してやるもんか、といたずら心に火がついたのだった。
そして、冬のある日。
イルミネーションを見にいった夜。
突然に切り出された、別れの言葉。
それから先のことは、あまり覚えていない。
泣いて、怒って、どうしてそんなことを言うのかと何度も問いただしたけれど。ただただ、「君には君の時間を生きてほしい」とだけ繰り返されたこと。あなた以外との時間なんかいらないと泣いたのに、ちっとも聞き入れてはくれなかったこと。
春には、ひとりぼっちの部屋で、ひざをかかえて窓の外ばかり見ていたこと。
その窓辺には、二人で買った、花の咲かない鉢植えがずっといたこと――。
「ひどいよね。せめて、もっと言い方ってものがあるじゃない?」
彼女は、写真立てをつん、とつついた。白い砂浜で、見つめ合う彼女と、彼。やさしいその笑顔は、写真と同じくらいにはっきりと、いつでも思い出すことができる――。
日はまためぐり、新しい秋の夜。
引っ越した一人暮らしの部屋で、郵便受けを開けると、一通の手紙が届いていた。裏返して送り主の名前を目にし、はっと息をのむ。彼と同じ苗字の女性だった。
エレベーターを待てず、階段で四階の部屋まで駆け上がる。がちゃがちゃと乱暴に鍵を開け、飛び込んだ玄関で蹴飛ばすようにパンプスを脱ぎ捨て、バッグを放り投げる。ローテーブルに着地したバッグは、あやうく白い鉢植え――どうしても捨てられず、前の部屋から持ってきたハートの葉の観葉植物――をはじき倒すところだった。
心臓はやかましいほどに速く、強く音を立て、震える指をおさえて封を切る。厚くたたまれた便箋に記されていたのは、言いつくせないほどの謝罪と――彼女がずっと知りたかった、真実だった。
あの冬の日の、少し前。彼の身体に、腫瘍が見つかったこと。
その時点ですでに進行の度合いは著しく、手の施しようがなかったこと。
このまま一緒にいると、いちばん大切な人の、キラキラ輝く青春の日々が自分の病のために奪われてしまうこと。
そんな未来を避けるために、自分は姿を消したい。そのために協力してほしいと、わが子から強く、強く頼まれたこと……。
読み進める一行ごとに、彼女の目からぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。手紙に落としてはいけない、と腕を長く伸ばし、肩口で涙をぬぐってはまた続きを読む。彼の母からの手紙は、彼女のことを思ってとはいえ、息子がしてしまった選択を詫びる想いが切々と記されていた。
そして――。
ある春の朝、彼は永遠に旅立ったこと。
永い眠りにつく前。意識が朦朧としていた彼は、握っていた手を、母ではなく彼女のものだと思いこみ、愛と感謝を語っていたこと。
息子からは、決して知らせてはいけないと言われていたが、母として最期の言葉を伝えなければいけないという葛藤があったこと。
そんな事情で時間がかがってしまったけれど、共通の友人をたどって、こうして手紙を届けることにしたこと……。
秋の夜。彼女はもはやおさえることもできず、声をあげて泣いた。
枯れることのない涙と、やむことのない慟哭を、小さな鉢植えだけが、じっと見つめていた――。
「ちゃんと、言ってくれればよかったのに」
軽く頬をふくらませて、彼女はフォトフレームの中でほほえむ彼をにらむ。と、窓からの風とともに、彼の声が聞こえた気がした。
だって、知ってしまったら最期まで僕につきあって、看取ろうとしただろう?
バレバレだよね、と、彼女は小さくため息をついた。
今なら、わかるよ。
あなたが、わたしに未来をくれようとしていたんだってこと。
でもね。わたしはあなたといっしょの「今」が。隣にいられる一秒一秒が、少しでも多く欲しかったんだ。
「ちょっとだけ、想いがすれ違っただけだよね」
彼女はさみしげに微笑み、フォトスタンドの角をちょんとつついた。
あなたがくれた未来。わたし、ちゃんと生きてるよ。
だから、あなたも――
安らいだ気持ちで、見ていてくれてたらいいな。
不意に目の前の景色がにじみ、肩にかけていたタオルをすくい上げるようにして顔に当てる。
肩がふるえる数呼吸。けれども静かに息を整え――。顔を上げたときには、先ほどまでのほほえみが戻っていた。
「さ。せっかく早起きできたんだから、お出かけしてくるね」
とん、と出窓に手をついて、腰を上げてチェアを折りたたむ。もとあったところに立てかけて、出窓を半分だけ閉じた。
そろそろ、ジョウロも買おっと。頭の中のメモに追加しながら、クロゼットに向かう。と、彼女は思い出したように振り返った。
「――ねえ。また、芽が出てきたよ」
止まってしまった時間と、動き続けている時間。間をつなぐのは、花言葉を持たない一株の鉢植え。
背を向けた彼女の背中を抱くように、やさしい風が、触れた。