〈すべての瞬間は君だった。〉の楽曲からイマジネーションを広げたショートストーリー。
第1弾は、『さよならビハインド』です。
「あ……」
通知音が鳴ったのは、塾を後にしてバス停に向かう途中。急に胸が高鳴り、汗が噴き出す。
取り出したスマホの通知バナーには、「オーディション結果のおしらせ」というタイトル。乗せようとした人差し指が、数ミリ手前で、止まる。
知りたい。知りたくない。いつしか立ち止まってしまっていた少女は、どん、と後ろからバッグを撥ねられてたたらを踏んだ。
夕暮れの街。少女をかすめるように、人々は通り過ぎていく。
スマホを左手に握りしめたまま、少女は小走りにバス停のベンチに滑り込んだ。
バッグを膝に抱え、前かがみに肘をつく。背中を丸め、覗き込むような姿で見つめるスマホは、ロック画面のまま。変わらずバナーはそこにある。
指一本で隠れてしまいそうな、ちっぽけな長方形。けれどもそれはスマホから飛び出して、少女にのしかかってくるようだった。
スマホを握りしめる左手が、痛い。右手は画面の上で、握ったり、開いたりを繰り返す。
その手が、半開きの状態で止まり……
ぎゅ、と人差し指が、バナーに触れた。
「また……」
夕陽はすでに姿を消し、夜の闇が下りていた。いつしか雨も降り出し、屋根に護られたバス停の外に、いくつも水たまりができている。水色に、紫に。看板の灯りを映して光る昏い鏡は、車が通るたびに歪み、弾けていく。
きゅっと小さく縮こまった背中が震える。さっきまではあんなに読むのを迷っていたメッセージを、また読み返す。
もしかしたら、前にもらったメッセージと読み間違えているんじゃないか。
もしかしたら、最後に追加で補欠合格の知らせがあるんじゃないか。
もしかしたら。もしかしたら……。
けれども、何度読み返しても、そこに並んだ文字は変わらない。
――厳正なる審査の結果、今回のオーディションにおいての採用を見送らせていただくこととなりました――
がんばったのにな。
あんなに練習したのにな。
わたしじゃ、だめなのかな。
思わず前かがみになると、足元から一歩先に見える、紫色の水たまりが歪む。ローファーにしぶきが飛び、点々と黒い染みが生まれた。そのまま世界がぐにゃりと歪み、瞳からこぼれ落ちた雫が、焦げ茶の革のキャンバスに、ふたつ、みっつと黒い模様を足していく。
憧れの衣装を着て、キラキラ輝くステージで踊りたい。自分の名前を呼ぶ声を、全身で浴びたい。素敵なメッセージをメロディに乗せて、自分の声で届けたい。
勇気を出して、そんな夢を語ったとき。いわゆる「いい子」だった我が子の突然の主張に、母はすこし困った顔で、「勉強と両立できるの?」と尋ねた。父は「やるからには、中途半端にするなよ」と言って背中を叩いた。
そうして交わした約束と、真正面からとっくみあってきた。一年半、塾を続けながら、ダンスのレッスンに通い詰めた。空いた時間があればカラオケに飛び込んで、スマホでボイトレ動画を見ながらマイクを握った。
いったい、いくつオーディションを受けただろう。
ダンスの先生にも褒められ、自分では成長したと思っても、門は固く閉ざされる。
隣に並んだ子のかわいさに慄き、ライバルが見せるダンスの躍動感が悔しくて、自分との差を現実のものにしたくなくて、目を伏せる。
ライバル――?
わたしが、あの子たちのこと……そんなふうに思っていいのかな。
最初っから、ぜんぜんステージが違うんじゃない?
きっとあそこは、選ばれた人だけが進める世界。わたしは――
わたしは、間違えたのかな。
少女はぎゅっと両手を握りしめる。左手に握ったままのスマホが、カチっと音を立てて、何度目かの不合格通知を暗闇に消した。
折れたのが脚ならば、這いずってでも前に進むことができる。
けれども折れた心は、すべてを過去に閉ざしてしまう。
行く手を見失った瞳に映るのは、底無しに黒光りするアスファルトと揺れる水たまり。そして涙の染みたローファーの靴先のみだった。
ピン……と、明るい通知音が鳴った。
緩慢に左の手首を返すと、スマホに一件の通知が届いていた。
半分無意識に、親指が動いてロックを解除する。自動的に立ち上がったアプリのメッセージは、同じダンス教室に通っている仲間からのものだった。
〈ねえねえ、すごいオーディション見つけちゃった!〉
文字は目に入っても、意味が頭に届かない。そうしている間に、次々と短文のメッセージが続く。
〈これ!〉
〈活動内容、うちらにぴったり!〉
〈家から通える!〉
〈プロデューサーの名前、見てよ!〉
送られてきた画像には、やわらかな書体で描かれたオーディションのタイトルと、少女もテレビで何度となく目にしてきた顔が、じっとこちらを見つめていた。
本当だ、すごい――
とくん、と胸が高鳴るのを感じる。
だけど――
つい先ほど、嫌になるほど繰り返し読んだ言葉が、棘となって心臓に突き刺さる。
――採用を見送らせていただくこととなりました――
ひとつ鼓動が打つごとに、ずきんと痛みが蘇る。期待と、努力と、緊張と……。そして、落胆。傷だらけの心は、怖い、と叫んでいた。
もう、落ちるのいやだよ……。
返信もせず、このまま画面を閉じようとしたとき。新たなメッセージが、ぽん、と現れた。
〈今日までうちらががんばってきたの、きっとこのオーディションに出会うためだよ!〉
〈正直、落ちてばっかで悩んでたけど…〉
〈これが最後だと思って、やってみる!〉
〈これ、いっしょに受けよう!〉
〈あとでレッスンのときに話そうね〉
立て続けに送信されたメッセージの熱量に、少女は戸惑った。
彼女も自分と同じく、アイドルを目指してオーディションを受けては、打ちのめされて帰るの繰り返しだった。
時には同じオーディションを受けることもあったけれど、努力の量も、緊張する姿も、なんとなく自分に似ていると感じていた。
自分と同じくらい落ちて、傷ついているはずなのに。どうしてあの子は、こんなに前を向いていられるんだろう。
「ああいう子が、陽の目を見る世界なんだろうな……」
思わず漏れたつぶやきに、自分ではっと驚いてしまう。
その瞬間、ひとつの映像が浮かび上がった。広いステージ、色とりどりのライトに照らされて踊る、あの子の姿。そして、それをずっと離れた客席から、薄闇に埋もれて見つめる自分自身。やけに現実味のある幻だった。
「え……。やだ、そんなの」
オーディションの落選は、自分の人格そのものまで否定されるようで、痛いし、怖い。
だけれど、立ち止まってしまったら。背を向けてしまったら。前に進む人たちには、一生追いつけない。置いていかれるのは、もっと怖い。
どっちに進んでも怖いなら……せめて前に進んだほうがいい。少なくとも、自分で選んだのなら、ちょっとは覚悟もできる。
「やるからには、中途半端にするなよ」
父親の、そんな言葉を思い出す。そうだ。やるって決めたんだ。
ふとスマホに目を落とすと、メッセージがひとつ増えていた。
〈いけると信じて、チャレンジしようぜ!〉
その下に、力こぶを作った子豚のスタンプが貼り付いていた。少女の唇が小さく震え、ふふ、と笑みが漏れる。
〈ありがと〉
そう打ち込んで、スマホをバッグに放り込む。勢いよく立ち上がった少女は、夜のバス通りを駆け出した。
顔に当たる小雨も、気にしない。撥ねた泥水が白い靴下を汚すのだって、構ってなんかいられない。
うつむいて、立ち止まっていた自分には、もう戻らない。少なくとも、このオーディションを終えるまでは。
そうやって、ひとつひとつ、飛び越えていけばいいんだ。飛べないことを怖がるんじゃなくて、飛べる日まで飛ぼうとしなくちゃ、飛べないんだ。
わたしが、選んだ道を。
わたしが、進むために。
わたしが、切り開く。
「決めたんだ……!」
息を弾ませながら、小さく吐き出したつぶやきが、ネオンの街に溶けていった。